町並みをゆく~波止浜編~

今治市の北部、狭い波止浜(はしはま)湾内にひしめく造船所群。一帯には巨大クレーンがそびえ、建造中の多くの船が並ぶ。まさに海運王国・造船の町今治を象徴する活気に満ちたエリアだ。日中は金属音が響き、大勢の工員が行き交う、地元の人にとっては日常の光景。かつてその場所に塩田が広がり、「メイドイン今治」の塩が生産されていたことは、あまり知られていない。

塩田があったまち

波止浜(はしはま)の塩田は、270年余りの歴史をもつ。広島の竹原塩田で技術を学んだ長谷部九兵衛により、県内最古の入浜式塩田が築かれたのは、天和3年(1683年)のこと。塩田完成時に、その繁栄を祈願して龍(ルビ:りゅう)神社が建立された。神社の鳥居は、なんと、海の中にある。近年、堤防が築かれたために不思議な光景になったが、龍神様が行き来しやすいよう河口に建立されたもので、当時は遠浅が広がっていた参拝口の石段の前にあったそうだ。

八木商店本館資料館

幕末まで塩田の増築は続くが、それが安定した明治以降は、塩田の地主たちは多角事業に活路を見出そうとした。その中で最もスケールが大きい人物が八木亀三郎だろう。彼はロシアへ渡り現地の商人と塩の輸送を特約。さらにサケ・マスの輸入貿易を始める。大正13年(1924年)には、3,000トン級の大型蟹工船「樺太丸」を仕立てた。40人が作業可能な缶詰工場を内蔵した船で、当時の技術の粋を集めたものであったという。蟹操業は活況を呈し、八木亀三郎は巨万の利益を得る。その拠点になったのが「八木商店本店」。大正7年(1918年)に建てられた本社兼邸宅は、近代和風建築として今もこの地に残る。裏山の庭園を含む総敷地面積は1,276坪。現在は「八木商店本館資料館」として一般公開されており、予約制で見学ができる。

塩田の終焉

昭和に入り、波止浜は大規模な塩田地帯となり、全国有数の塩田産地として知られるようになった。しかし化学製塩が主流となったことで、昭和34年(1959年)、ついにその長い歴史の幕を閉じた。

新たなる船出

塩田はなくなった。しかし波止浜は、海運・造船の町としてさらなる発展を遂げたのだ。江戸以来の塩田事業を通じて、資材運搬・流通のための海運や船舶関連の事業も発達していたことが、大きな推進力だった。かつて、波止浜は各地から入港する千石船(塩買船)で賑わい、「伊予の小長崎」と呼ばれる有名な港町になっていた。交易が盛んになると、船の修理や建造が必要になる。すると船大工が育ち、防波堤の工事などの港湾整備も行われるようになる。今治の海運・造船業はまさに、塩とともに発展、成長してきたといえる。

恵まれた自然条件に後押しされた塩田事業だったが、苦労の末に開拓し、発展させたのは、人の力。塩田が衰退したのちに別の道へと舵をきったのも、人の知恵と力だ。今治市が今や世界でも類を見ない海事産業(海運業・造船業・舶用工業)が集積する海事都市となったのは、今治人が時代の変化を読み取り、迅速に対応する力を持ち合せていたからに他ならない。